2009年8月22日土曜日

世界中の人はみんな仲良く

これも国際交流と言って良いのかなあ?
メキシコ市近郊に有るマヤの遺跡ートウーラで。遊びに来ていた現地の家族と。

先ず戦争を亡くし、貧困を亡くし、病気を亡くし、人が住みよい環境を作る事が大事。それには、世界中の人々が仲良くする事が大事。
お互いを知れば喧嘩はなくなる。

2009年8月19日水曜日

2009年の家族の夏休み。(丹波村)

川(多摩川)で遊ぶ。なにやら気むずかしそうなお爺ちゃん。でも内心は最高に楽しい。

ろーらーコースターの始発場所での戸嶋一家。お婆ちゃんが写した。


うわー、啓ちゃんを先頭に悠ちゃんがそしてその後ろにモッコさんが来ているぞ。みんなとても楽しそう。おばあちゃんが写した。
次はオバアチャンが滑って来たァ。画像をクリックして大きくして良く見て下さい。









モッコさんが滑って来た。日本一長いと言うローラコースターで全長247メートルなんだってさっ。



涼しい屋外での例のヘッポコ将棋が始まった。王より角や飛車をうんと大事にする事は勿論、状況が不利に成ると将棋板を逆さ(相手の陣地を自分の方へ回す)にする。悠タンの腕はまだ未知数だが、啓たんは直ぐとても上手く成る。



宿の部屋は2階の一番大きな部屋、3部屋をぶち抜いて使わせてくれた。子供達ははしゃぎ周り大喜び。
なんと言っても涼しい。ひんやりした風が絶えず吹いてくる。
晩ご飯のご馳走は山村に相応しい料理で岩魚やその他珍しい食材を使った料理が食べきれない程うんと出た。勿論(ボー)も出た。




今年のメンバーは、左から80歳のジジ、76歳のババ、9歳の悠介、13歳の啓太それと44歳のママ、モッコさんの5人である。



年中恒例行事に成って居る、庄崎と戸嶋の夏休みは、1~2泊で山梨県の丹波村に山や、川での自然遊びで過ごす事に決まった。

2009年6月19日金曜日

世界遺産の一つ飛騨の白川郷へ

梅雨の合間を縫って又我々は出掛けた。目的地は飛騨の高山、西穂高岳、それとかねて行きたいと計画していた白川郷である。 一日目は平湯温泉に泊まった。 典型的な白川郷の合掌づくりの家。中は広く暖かい。

我々が利用した民宿「のだにや」正面玄関からの感じはこんなものでした。
夜は一晩中かえるがうるさく鳴き田舎情緒をトップリ味わいました。

今回我々が泊まった民宿「のだにや」国道から入った村道沿いの左側4軒目。
女将さんがとても感じの良い人だった。1泊2食付きで8,400円。料理も山菜中心(勿論)初めて食べる料理もうんと出て、もの珍しかった。


やっと長い間憧れていた白川郷に2人で立つ事ができました。村から少し離れた所の展望台で高さ約200メートルの丘の上。



平湯温泉に寄る前に行ったのは、この写真の示す西穂高岳。空中ケーブルで登ったが、遠望台は2100メートル以上。辺りは未だ雪がベットリ。写真をクリックして雄大な穂高岳をご覧下さい。


この写真は、平湯温泉にある「ひらゆの森」で一泊2食付き9000円。ツインベッドとトイレと洗面所付き部屋は大きく清潔、とても安いと思った。おすすめ度は1
番。料理はご馳走だった。温泉は硫黄泉で貸し切り制度。


2009年6月1日月曜日

第二の故郷メキシコへ40年ぶりに!

我々が子育てを始めた若かりし時代、メキシコ市に永住権を持ちすんでいた事が有る。その子供達も成人し、結婚し、我々も仕事から離れ、時間が出来た。彼の地には当時仲良くしていた人、世話に成った人も多い。一方我々夫婦は幸い元気だ。今訪問しなければ行く事も出来ない時が近い将来来る年齢に成って仕舞った。それで、思い立ち、意を決して出掛ける事にした。

メキシコ市中央(セントロと言う)に有るアラメダ公園で。この日はセマナ・サンタ(復活祭)だったので普段は居ない騎馬警官が大勢いた。いかにもメキシコらしい風景。

此処はメキシコ市の中心街に有る、日本で言えば歌舞伎座とも言える所、パラシオ・デ・ベヤスアルテスと言う。此処の出し物はこの国の歴史が判る様な物だが
とても手前味噌の様な芝居も多く、まあ、一種の国の宣伝機関の役割を果たしているのかも知れない。でdも、観光客は一度は行っても良いかも知れない。


此の写真は想い出の多いタスコのソカロに有るカテドラルである。今丁度工事中だったが、外観は何とかみる事が出来た。相変わらず、大勢の人でにぎわっていた。

此の写真はメキシコ市の北西70キロほどに有るツーラの遺跡・・市の付近の遺跡はアステカの遺跡が多いが此処の遺跡はマヤである。見知らぬメキシコの家族と。


     













2009年3月12日木曜日

難聴(不便ですよ)。

私は、約15年位前(1994年頃)から、じょじょみ左耳から聞こえが悪くなりいまでは残念乍ら左耳はほぼ失聴、右耳は高度難聴です。   

当然の事ながら他人との会話もはずみません。更に大勢いる人の輪の中に入って行く事はとても困難です。”何とかせにゃァ”と考えた結果以前から行って居ることを更に強制的に行う事を課してみました。

私の難聴は感音性高度難聴と言うやっかいな奴。現在の科学技術、医学水準では治りません。サプリメントを暁暁しく宣伝しています。例えば「蜂の子」など。然しこれを藁をも掴む思いで試した人達は皆一様に駄目と言っています。蜂の子に限らずサプリメントは総て効果は無いようです。

ではドーすれば良いか?現在は何も期待しない事です。悲しい事です。

2009年2月7日土曜日

新年の挨拶

   2009年 元旦 雪の中の秩父三峯神社で。 今年も皆さん 元気で!

2009年2月6日金曜日

新年の挨拶


謹賀新年 2009
  明けましておめでとうございます。今年もよろしくです。


   病む身をば  騙し鞭打ち 来はしたが
             迎えし  正月
                目出度くも有り
                目出度くも無し 
            

2009年2月4日水曜日

お出掛け好きな老人達


我々夫婦(高齢者)は、とにかく”お出かけ”が好きと言うより、もう体の一部に成って仕舞った感じで何時でも何処かへ出掛けて居ると言う習性を持つ。11月も大菩薩峠、九十九里浜、巣鴨のとげ抜き地蔵と矢次ばやに遊び回って居る。自分たちで自分の車を運転し、何処へ行くのにもお弁当持参なので、思いの外金はかからない。これからも、此の習慣は変わらない。何時でも家を空けているが、幸い泥棒さんに狙われた事も無い。家へ泥棒さんが入って来たら、なんて可哀想なんだ。少しなんか置いて行ってやろう・・・なんてかんがえるかな





三叉神経痛

私はあらゆる病気の症状の中でも最も痛く辛いと言う三叉神経痛を不幸にして持ってしまいました。今から約10年以上も前の事です。最初は歯痛と思い、公立病院の口腔外科にかかりました。然しひと月の間担当の医師の診察で、原因は不明でした。一方痛さは段々と酷くなり、担当の医師も、もしかしたら骨髄炎かも知れないから、入院して調べましょう、と言う事で、12月も押し迫った20日頃その公立病院へ入院しました。あらゆる理学検査の結果は異常無し。途方に暮れる医師。いやに成った私にその医師は試しにと言って白い小さな錠剤を飲ませました。するとどーでしょう。私の痛みはすーっと引いたではありませんか。痛みが無くなったと言うと、医師は万歳し、貴方の病名は三叉神経痛です。と言いました。飲んでもらった薬の名は、テグレトールと言い、これが効けば三叉神経痛なんだそうです。こうして、此の時期から今も三叉神経痛と何時も必死で闘う生活が続いています。
今までも、ストレスが溜まった時とか疲れた時等の体力が低下した時には此の三叉神経痛が出ていました。その度、激痛に見舞われたんですが、激痛の退治には、三叉神経の神経根をモルヒネとかコカインの様な麻酔剤で一時的に麻酔する方法しかなく、仕方無くこの方法で激痛を取って居たんですが、神経根への麻酔剤の注射が又死ぬ程痛く何とか成らないかなあ?と思い、ネットで全身麻酔下の施術を探した所、
    ナーブ・ケア・クリニック  
                

を探しました。

  神奈川県横須賀市安浦2-19 

          024ー824ー7638・・・電話
          046-834-8178・・・FAX

三叉神経痛患者は、痛みが出て居るときは、死人と同じで何も出来ませんが、痛みが無ければ普通の人間です。此処の施術で私は、もう三叉神経痛が怖い病気では無くなりました。と言う事はもう、此の病気が原因で、痛みや苦しみを感じる事が無くなったからです。痛みが無い時には、内外への旅行や仕事、何でもできます。しかも、全身麻酔下3時間ぐらいで、又普通の人に成れるんです。今年6月からは、日帰り施術の受け入れるそうです。本当に現代の進歩した医学に基づく医療に敬意と尊敬の念・それと感謝です。


神経痛の新しい治療法の開発
2009年12月に知らせを受けた報告に依ると、全身麻酔下でなく、静脈注射に依り三叉神経痛を取り除く新たな方法が開発され、患者への実用試験でも成功したとの事。この病気の持ち主に取り、凄い朗報である。